TOPページへ 気まぐれ日刊情報 村上宏治の東方見聞録
鯨のお話
 

年程前、ヨーロッパのあるホテルでテレビをつけましたら、
日本の捕鯨船がクジラを追ってモリを打ちこみ、
海が真赤になる映像を延々と流しているのに閉口しました。
カメラアングルと編集によってはまるで虐殺のようで、
鯨虐殺をする日本人として、日本のイメージダウンに完璧につながっていました。
怖いことです。

鯨ヒゲについては、からくり人形のぜんまいや釣竿の穂先など 、
欧米と同様にさまざまな素材に用いてきた。
特に文楽人形の命ともいえる精妙な首の動きは、
鯨ヒゲでなければ出せないといわれています。



鯨料理が歴史上に登場するのは室町時代。
本膳料理の汁に鯨がみえます。
打ちあげられた鯨ならともかく、 あの巨大な図体をしとめるのは容易なことではありません。
古代の遺跡から鯨の骨は出ますが、
当時にはやはり群れとしての共同体があったのでしょうね・・・・

江戸時代なって捕鯨が盛んになるに従って、 料理書にも利用法があらわれます。
日本で刊行された最初の料理書である「料理物語」一六四三年刊)には、
たまり醤油か味噌仕立ての鯨汁が記されています。
ごぼう、大根、野菜の茎、竹の子、茗荷など季節の野菜を加え、
さっと煮え湯をかけてから鯨肉を使う、とあります。
多分、肉の臭みをとるためでしょう。

鯨の肉は腐敗しやすいのでアメリカの捕鯨ではすべて捨てられ、
油だけが利用されました。
日本でも鯨油の方がよく利用され、田んぼの害虫駆除に欠かせぬものでした。
しかし日本は漁場と消費地が近いものですから、生でも塩蔵でも食用されました。
それにしても匂いが強いので熱湯で洗ったのでしょう。

しかし鯨が本当に重要な食料となったのは第二次世界大戦後の食糧危機の時代です。
私など、ちょうど小学生時代にあたり、給食で無理やり食べさせられた鯨の印象が強くて、
ところが今はなんだか恋しいですね。

江戸時代後期に出された「鯨肉調味方」と言う料理本には、
クジラのからだを見事70にも分類し、それぞれの料理方が克明に紹介されています。
肉や皮、舌、内臓ばかりでなく、顎から歯ぐき、さらには、ペニス、睾丸、
など食の本場、中国をしのぐ徹底ぶりです。
食べられないところは、骨と歯とヒゲだけです。
わが国はクジラを余すところなく利用してきています。

ちなみに歯ぐきは「子ひげ」と呼ばれ、
生のまま薄く切り、 醤油などにつけて食べると淡白で美味しいと言います・・・
渋谷の鯨専門の料理店主いわ く

それからクジラの体に付着しているフジツボやカキなども紹介されているが、「食料にあらず」のようです。

日本人は太古の時代からクジラを食料として脈々と利用してきました。
その歴史のすべてを知ることは当然不可能ですが、文献などで垣間見ることはできます。
たとえば平安時代に書かれた「倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」 には
いくつかの魚にまじってクジラの名がみられます。

仏教の影響から獣食が忌み嫌われていたわが国では、
魚の仲間とされていたクジラは貴重なたんぱく源だったようです。

また、室町時代の料理本「四条流包丁書」には、
最高の献立としてクジラ料理が紹介されています。
江戸時代には、「鯨肉調味方」をはじめ、多くの料理本でクジラが紹介されており、
庶民的な食材として広く食べられていたことがうかがわれます。  

肉ばかりでなく、鯨油の利用も古く
縄文時代の遺跡からイルカの脂肪を貯蔵したと思われる土器が発見されています。

わが国ならではの鯨油の活用法は農薬でしょう
田んぼに鯨油をまくと、一面に油の膜ができます。
その後に、棒などで稲をたたき、害虫を油膜の上に落として退治するのです。
この方法は江戸時代後期に発案されて全国に広まり、米の増収を もたらしたと言われています。
また、鯨油を牛などの家畜のからだに塗り付けて
アブなどの害虫から守ったという話もあります。
   
さて、最後に残されたのは骨です。
クジラの骨には多くの脂肪分が含まれ、 これらからも鯨油がとられています。
そして採取した後の骨さえも、田畑にまかれ肥料として利用されたようです。
この通り、日本人はクジラのすべてを利用し尽くしてきたのでありました。

(河出書房新社「クジラの謎 イルカの秘密」)より

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