平田玉蘊>エピソード
私はここで生きる・・・玉蘊「軍鶏」の章
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平田玉蘊 ◆思いが遂げられず、一度は別れた玉蘊と山陽であったが、その後、何年も山陽は玉蘊のことをこっけいなぐらいに引きずっていたようだ。山陽が尾道の宴会で玉蘊に再会したときにも、殊更に新しい恋人・細香をほめちぎる詩を贈ったり、新しい恋人の出来た玉蘊を未練がましくののしったことを知人に話している。玉蘊はかつての人生をかけて追った男のことをどう思っていたのであろう。逆に玉蘊は山陽へ思いは断ち切って、筆一本で生きていく決心をしていた時期ではないだろうか。
そんな玉蘊の決心とは裏腹に世間の噂は、男を追いかけ戻ってきたかと思えば、新しい年下の恋人ができたことで、より一層中傷を浴びる結果になってしまった。

その当時描いたと言われる「軍鶏図」がある。寒風が吹きすさぶ中、羽もボロボロになった一羽の軍鶏が、岩をしっかり掴んで立っている。首を風上に向け、その目は何を見据えているのであろう。傍らに描かれた竹の動きで風の強さが感じられる。
かつて山陽は「夫が竹を描けば、妻はその傍らに蘭を描く」とまさに玉蘊との結婚を夢見たような詩を詠んでいる。今、その竹の横にいるのは、傷付いた一羽の軍鶏である。
これはただ失恋に傷付いた玉蘊の姿であろうか。いや、寒風の中、しっかり岩を足で掴んでいる軍鶏は、世間の冷たさの中、玉蘊が画家として生きて行くのはこの尾道しかないという決心が込められた姿ではないだろうか。

それまでは華やかな絵が多い中で、この絵は一層、異彩を放っているように思える。

g−038「軍鶏図」
g−038「軍鶏図」(浄土寺蔵)

g−039「軍鶏図」
g−039「軍鶏図」(浄土寺蔵)

玉蘊が画家として更に一段階段を上がったとき、40歳を前にした山陽は後悔の念を語っている。

備後小野(尾)道邑、女玉蘊。姻事諧わず、終にその郷に帰り、爾後これを恥じ再び京に至らず。山陽曰く、信に憫れむべき也、吾実に負きおわんぬ。
憫れむべし、憫れむべし。実にこれ人生の一大苦みなり。喫し得しまいて後、まさに知らん。

備後の国、尾道の娘、玉蘊は婚姻の一件がまとまらず、とうとう故郷の尾道へ帰ってしまいました。以後は、それを恥じて、二度と京へ上がって来ませんでした。山陽は「可愛そうなことをしてしまったよ。僕は彼女の真心を裏切ってしまったんだ」と言っています。(上掲書)

鶴鳴も玉蘊の中の山陽の影に耐えられなかったのか、あるいは自分の才能は山陽にも玉蘊にも敵わずと居場所を失ったのか、玉蘊のもとを去っていった。

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