平田玉蘊>エピソード
古鏡歌
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平田玉蘊 父五峯が亡くなり、福岡屋も崩壊した中、自宅の屋敷を借家にするなど、かなりの財産を手放したものと思われる。そんな中で玉蘊が古鏡を最後まで手放さなかった最大の理由は、山陽の叔父頼杏坪の「古鏡歌」ゆえだろう。玉蘊が20代のころに杏坪がつくった長篇古詩は、古鏡になぞらえて美しく清らかな玉蘊を讃えてやまない。女性なら誰しもこんな風にうたわれたいと願う詩である。

曾聆玉浦一豪姓
邑裏赫然稱卓鄭
一朝家難蕩
寳厨玩物存古鏡
方圓大小雖異容
均是古雅視起敬
菱花鸞龍世非無
此之他鏡韻度夐
千金小姐字玉蘊
零丁伴母守孤檠
丹青絶伎逐年工
一時聲價四方迸
誰料繊々柔
筆力凌轢驚老硬
因知天奪財貨富
換付後世才華盛
日舐毫華韈材
甘旨奉母勤温清
秀異却恨少伉麗
氷人誰能謀婚娉
金鈿銀笄非所願
獨撫古鏡持潔行
古鏡雖奇昏似烟
晨窓寧用照粧
幽姿温文物相得
愛玩向人覓題詠
余亦為製古鏡歌
一闕衝口応汝請
鏡兮鏡兮如有霊
為汝辟邪来福慶
かつてきく玉の浦 一豪姓
邑裏赫然(ゆうりかくぜん)として卓鄭(たくてい)と稱す
一朝 家難くして旧産をうしない
宝厨 玩物 古鏡を存す
方円大小かたちを異(こと)にすといえども
ひとしく是れ古雅にして視れば起(さら)に敬す
菱花鸞龍(りょうからんりゅう)世に無きにはあらず
これを他鏡に比ぶるに韻度はるかなり
千金の小姐字(しょうしゃあざな)は玉蘊
零丁母に伴いて孤檠(こけい)を守る
丹青(たんせい)の絶伎は年を逐うてたくみにして
一時の声価 四方にはしれり
誰かはからん繊々 柔(じゅうい)の手
筆力 凌轢(りょうれき)にして老硬を驚かすを
よりて知る 天は財貨の富を奪うも
換えて後世の才華の盛んなるを付すを
日に毫(とごう)を舐めて韈材(べつざい)を華やかにす
甘旨(かんし)母に奉じ 温清に勤む
秀異却って恨む 伉麗(こうれい)を少(か)くを
氷人誰かよく婚娉(こんぺい)を謀らん
金鈿銀笄(きんでんぎんけい)願うところに非ず
独り古鏡を撫し潔行を持す
古鏡 奇なりといえども昏なること烟(えん)に似たり
晨窓(しんそう)何ぞもって粧(しょうせい)を照らさん
幽姿温文 物相得て
愛玩し人に向かいて題詠をもとむ
余また為に古鏡歌つくり
一闕(いっけつ)口を衝いて汝の請いに応う
鏡よ鏡よ、もし霊あらば
汝の為に邪(よこしま)なるものを辟(のぞ)き福慶を来らしめよ
   (芸藩通志) (池田明子『頼山陽と平田玉蘊』)

【かつて尾道には“尾道の卓さん”あるいは“鄭さん”と威名をとどろかせた金持ちがいた。ある時、家が没落して昔からの財産を失ってしまったが、手にとって慰む宝として古鏡が残った。形、大きさはそれぞれ異なるけれど、どの鏡も古風で雅びやか。見詰めていると畏敬の念を覚えるほどだ。菱花やらん龍の模様は世間に無いわけではないが、他の鏡に比べきわだって風格が漂う。
お金持ちのお嬢さんともてはやされていた玉蘊は、いま母につかえて独身を守っている。絵の優れた技は念を追って巧みになり、その名声は四方に馳せるまでになった。誰があの白くきゃしゃな手で力強い絵を描いて、老硬たちを驚かすなんて想像するだろう。思うに、天はあの人から産を奪いはしたが、代わりに輝くばかりの才能を与えた。
日々、細い筆をなめて絹に美しい絵を描き、母には朝な夕な美味をすすめ、冬は温かく夏は涼しくと気を配る。優れた才能の持主に相応しいつれあいがないというのは嘆かわしい。誰か仲人があらわれて婚礼を整えてくれればよいのに。金のかんざしも銀のこうがいも欲しがりはしない。ひとり古鏡を撫でて清らかな日をおくっている。古鏡は珍しいものではあるが、くすんで曇っているので、朝の光のさす窓辺で其の美しく化粧した顔を映す役にたたない。
たおやかな姿の心やさしい人が鏡を得、それを大切にして、人々に題詠歌をもとめた。私も古鏡歌をつくったところ、歌の一節が自ずと口を衝いて出たので、それをあなたの頼みに応えたものとしよう。
鏡よ鏡、もし霊があるならば、あなたのために災いを除き幸せをもたらしておくれ】

杏坪は先ず、福岡屋の華やかだったころを登場人物に比して述べる。卓氏は、ことに美しい娘がいることでも有名であった。が、福岡屋は没落してしまい、多くの財宝は四散し、古鏡だけが玉蘊のコレクションとして残った。
――絵筆一本で自立している女だが、決して浮ついた新しがり屋ではない。むしろ古風で地道な生き方をしている。そんな玉蘊をみつめていると、敬いの念さえ感じるくらいなんだよ。
蝶よ花よと、愛しみ育てられていた玉蘊。幸せだった少女時代ゆえに一層、今の孤独な境遇が、杏坪の玉蘊への思い入れを深くした。不幸な私生活とはうらはらに、画業の方は着実に名声が高まっていく。杏坪は、ため息をついた。
――世はままならんものだ。玉蘊のような才能とみめ麗しさを兼ねた女性が、生活のために売画を描かねばならんとは。
玉蘊は、きらびやかなアクセサリーで身を飾るタイプの女性ではなかった。
――珍しい古鏡だって、玉蘊の清らかな美しさに比べれば何の価値もない。(池田明子「頼山陽と平田玉蘊」)

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