鼓岩、通称ポンタ岩の上で読んでみて下さい。この一節。
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(八月×日) 海が見えた。海が見える。五年振りに見る、尾道の海はなつかしい。汽車が尾道の海へさしかかると、煤けた小さい町の屋根が提灯のように拡がって来る。赤い千光寺の塔が見える、山は爽やかな若葉だ。緑色の海向こうにドックの赤い船が、帆柱を空に突きさしている。私は涙があふれていた。 貧しい私達親子三人が、東京行きの夜汽車に乗った時は、町はずれに大きい火事があったけれど…… |
![]() 小林正雄による書 |
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「ねえ、お母さん!私達の東京行きに火が燃えるのは、きっといい事がありますよ。」しょぼしょぼして隠れるようにしている母達を、私はこう言って慰めたものだけれど……だが、あれから、あしかけ六年になる。私はうらぶれた体で、再び旅の古里である尾道へ逆もどりしているのだ。気の弱い両親をかかえた私は、当もなく、あの雑音のはげしい東京を放浪していたのだけれど、ああ今は旅の古里である尾道の海辺だ。海添いの遊女屋の行燈が、椿のように白く点点と見えている。見覚えのある屋根、見覚えのある倉庫、かつて自分の住居であった海辺の朽ちた昔の家が、五年前の平和な姿のままだ。何もかも懐かしい姿である。少女の頃に吸った空気、泳いだ海、恋をした山の寺、何もかも、逆もどりしているような気がしてならない。 尾道を去る時の私は肩上げもあったのだけれど、今の私の姿は、銀杏返し、何度も水をくぐった着かれた単衣、別にこんな姿で行きたい家もないけれど、とにかくもう汽車は尾道にはいり、肥料臭い匂いがしている。
船宿の時計が五時をさしている。船着場の待合所の二階から、町の燈火を見ていると、妙に目頭が熱くなってくるのだった。訪ねて行こうと思えば、行ける家もあるのだけれど、それもメンドウクサイことなり。切符を買って、あと五十銭玉一ツの財布をもって、私はしょんぼり、島の男の事を思い出していた。落書だらけの汽車の待合所の二階に、木枕を借りて、つっぷしていると、波止場に船が着いたのか、汽笛の音がしている。波止場の雑音が、フッと悲しく胸に聞こえた。「因の島行きが出やすんで……」歪んだ梯子段を上って客引が知らせに来ると、陽にやけた縞のはいったこうもりと、小さい風呂敷包みをさげて、私は波止場へ降りて行った。
夜。 | |
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