「小林先生とその作品の底流」 高橋玄洋

小林先生  人生において最も強い影響を受けた人と問われれば、私は躊躇なく小林和作先生と中川一政先生の二人をあげる。それも中川先生に出会えたのも小林先生とのご縁からだから、先生とのめぐりあいは私の人生を決定ずけたと云っても過言ではない。巡りあえたのは19歳の時、先生は59歳だった。勿論その年令で先生もその作品も理解し得るわけもなく、当時は初めて出会った大型人間のスケールに圧倒されただけだったかも知れない。同じ人間でもこんなにスケールが違うものかという驚きだったと思う。
 以前から文学を志していたので先生の人間的な面から入ったのだ。どうしたらあんな魅力が生まれるのだろう。少しでもその魅力に近ずくにはどうすればいいのか。それとも天性のもので凡夫にはもともと不可能なことなのか。
 先生の魅力にのめり込み翻弄されながら少しでも人間的な面で近づきたい願望の方がだったと思う。その一つが先生の絵を身近かに置きたい願望となり、傍に置ける身分になりたいという願望に変わっていった。先生の作品がいくらかでも分り始めたのはかなり後年になってからのことだと思う。
京都時代  ありていに言えば、それまでの私は「先生の作品だから」欲しかったのだ。それがいつか見回すと、狭い書斎の壁は小品ながら先生の作品で埋まるほどになっていた。
 何故そこまで先生に魅せられたかは他にも書いてきたし今回の目的ではないのでここでは割愛するが、四六時中先生の絵に囲まれ、観ていると素人ながらなぜこの絵を観ていたいのか、また牽かれるのか、一つ一つの絵についてもより深く考えさせられるようになるものである。毎日の繰り返しの中で密かに感じていたものもおのずから自覚するようになり、ようやくコレクターの気持ちが分りかけた頃、突然先生に逝かれてしまった。
 そのショックは余りにも大きかった。中川先生の言葉ではないが巨木が地響きをたてて倒れた感じだった。あの日から四半世紀経とうとしている。三次での事故の一報を聞いた時の驚きは今の昨日のことのように思い出される。
 今となっては、絵についてももっと突っ込んで色々聞いておくべきだったと悔やむことばかりだが、小林先生の場合、私のようにファン的な入り方をした人も多いのではないかと思う。
 そしてそれはあながち間違いとは言えない、むしろ先生の理解には良かったのではないかとも思うのだ。
 その辺りに小林芸術の特質があるのではあるまいか。
 芸術家の評価は普通その作品とその系譜的成果や功績で論じられる。作品的な成果から作家の内奥に潜むものを探ろうとするのが順序だろう。しかし、私の先生に対する場合は逆で、まず先に人間小林和作の魅力であり、その先生が描かれた作品として絵があった、と述べた。
小林先生・夏  実は先生の絵画修行自体が人間がまず先だったのだ。
 これは先生ご自身で言われていることだが、長い日本画のアカデミックな教育の中で思うような高い成果を上げることができなかった。強烈な個性は静かな日本画のサイズからどうしてもはみだしてしまう。気質的にも肌が合わない。そんなことを常々感じながら、それでも悪戦苦闘された経緯がある。その間に勉強された南画や東洋的教養は、画面の技術の上では成功しなかったが、先生の中に深く蓄積されるものを残していった。自然の中から美を探り出す目、人生を達観する独自の思想となって人間的な成長に結びついて行ったのだ。
 こうして卓越した人間を作り上げた小林和作が後年、気質的にも色彩感覚的にもピッタリした油彩画に立ち向かわれることになるのである。
 そこにはおのずから若い画学生たちが絵を描くことにより人間形成を図るのとは違うものがあるのは当然のことだろう。
 洋画を始めるにあたり、今日ほど有名でなかった梅原龍三郎、中川一政、林武の三氏を師とされたことでもそれは歴然としている。まず先に眼があったのだ。理想とする美が既に身内にあっての出発である。明確な価値が先にあるのである。
 一般の画家と文人画家との根本的な違いはここにある。まず人間があり、その人間が絵や書を書くのだ。
小林先生  小林芸術の特質は一口で言えば、作品に漂う独特な気品、香気であろう。これは描こうとして表出出来るものではない。先生自身もこれを目的として描かれてはいない。後世、技術的なことで真似する者が現れたとしても、この気品だけはどう真似ることもできない。作者の内からおのずと発するものだからだ。
 この香気が人間の上だけに止まらず、作品世界の上に花さいたのは、日本画を学び、古今の東洋の書画から身につけられた東洋的思想と大いに係りのあるところなのだ。
 西洋の文化がギリシャ以来、眼に見えるもの、形有る物の追求実証を旨としてきたのに対し、東洋ではその奥に潜む見えないもの、見る者の心境といった無形のものを追い求めてきた。南画の六法の気韻生動などまさにそれだが、日本画から始められた先生の根底には生涯通してこの東洋的思想があった。つまり描きたい目的自体が洋画から出発した洋画家たちと全く違っていたのである。
 西欧画材による東洋の模索とでも言っておこうか。狙い自体が全く違うのだ。
 その背景には明治以来の油彩画が西欧への追いつけ追い越せの追従一辺倒だったことへの不満があったに間違いない。道具材料が何であれ、日本には日本人の美術があるはずだ。
カプリ島  言葉でいうのは簡単だがこれは大変なことである。一朝一夕に出来たわけではない。先生にして長い苦悩の歳月とプロセスがあった。
 洋画に移行した大正末期の作品には当然のことながら師である梅原、中川氏らの影響が歴然としているし、その元にはセザンヌが見え隠れしている。第二期と言うべき昭和初期のカプリ島、エクス風景など滞欧時代の作品には油彩画のこなしと言った側面も見える。
エクス風景 蕾は膨らみながらもまだ独自の画境とは言い難いものが残る。そして家庭の経済的な大変動を経て、春陽会から独立展に移り、尾道に住まわれる昭和9、10年、「通り雨」「日照り雨」の頃から東洋的世界の油彩による独特の表出として小林和作一流の統一された作品が芽生えるのである。
 世間がこれに注目しないわけはない。先生の名は一段と高まったが、それらの絵が雨脚によって画面が壊される寸前のところでようやく支えられた作品だったことはいかにも面白い。
 もう一つ見遁してはならないのは、当時の先生が突然の経済的な理由から都落ちを余儀なくされ、最も孤独と寂寥にさいなまれた時期だったことである。
 この苦難は先生を更に深く鍛え上ることにつながった。家族的にも不幸不運が重なる中でその作品はより深みを増して行く。「東尋坊風景」から「鳩」にかけての作品群には人間的苦渋の色合いが強い。寂しく重くもある。
東尋坊風景 鳩
 こうした先生にようやく春が訪れるのは終戦後のことであった。私が先生に出会えたのもこの頃だった。
 その明るい風景の中に「ゆく春」や「初冬の山」「高原」などの諸作に現れる点景人物を発見した時、人々は生きていることの幸せに胸を熱くしたものだ。小林芸術の一つの頂点であり、東洋と西洋の奇跡的な結晶でもあったと思う。
ゆく春  こうして花咲いた小林芸術はその天賦の色彩感覚によってその色巾を増し、一気呵成に天衣無縫の境地へと走り続ける。
 大まかに言えば、こうした軌道の中で小林芸術は完成に向かって走りつづけたのではあるまいか。
 その技法は水墨画でいう没骨、破墨の法であり、山や岩などの塊は線で囲まれることがなく、立体の面は色で描き分けるセザンヌ的手法だが、タッチは厚塗りでやや太くて長い線の並列という荒めの点描であり、明らかにゴッホの技法を思い出させられる。筆使いの速さ、発色の良さとともに先生の大きな特徴と言えるだろう。
初冬の山  しかし先生の最も重視されたのは画面の緊張した構図であった。それも色彩を含めての構成であり、画面の充実こそ常に変わらぬ命題であったことはご自身書かれた文章にも度々出てくるところである。これも眼が先だった先生ならではで、その骨格の太さは林武氏から学ばれたものであろう。
 もう一つ忘れてならないのは春秋繰り返された写生旅行である。画家はみな自然の中に美を求めるが、その汲み分けはさまざまである。先生の場合、天地の芳醇がかもし出すリズムやハーモニーのすばらしさを写し取る作業だった。この自然の豊麗に対する敬 な態度が、自然そのものの直裁独特な活写につながるのである。
 この写生画はタブロのための素描として使われ、生前殆ど表舞台に現れることはなかったが、没後8年、東京で大々的に発表されるや専門筋に大きな波紋を投げかけた。それは水彩画としての高い評価で一躍「昭和水彩画集」などに取り上げられることになり、その反響は企画した私自身を驚かせるものだった。その技法から日本画から入った画家の特徴がよく出ているとの見方もあったが、そんな簡単な問題ではあるまい。むしろ東洋の精神的捕え型の問題だと私は思っている。
山湖の秋  こうした水彩写生を元に尾道に自宅の二階でタブロとして再構成されるのが先生の作画法であった。その時はもう自然そのものではなく芸術家の詩情を通り抜けて単純化され、作者によって統一され結実した作品として再生される。
 その時、生来の奔放な色彩感覚はきびしい構図の中で葛藤し抑制されて、更なる調和に向かってむしろ沈潜さえする。
 晩年、その色味は巾を増し、自然の豊麗はさまざまな色のハーモニーを奏でて音色のように響き合う。しかし、その底にあるのはあくまで東洋の幽玄につながる深さであり、人生の寂寥であり、それが品位、品格となって小林芸術を支えていることを忘れてはならないだろう。
 没後四半世紀を迎えようとしている現在、その芸術的評価はますます高まりつつある。それでも尚不満に思うのは、公募展の大作偏重、力の潮流の中で真に日本的絵画としての視点が欠落していることである。文人画をあたかも文化人の遊びの如く軽く受けとめていては小林芸術の真の理解はありえないと思う。
(たかはし げんよう 作家)

[このページは尾道市、尾道市立美術館、各方面の許可のもと公開しています]


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