山陽の著作

日本外史
日本外史
 広島で波乱に富んだ青年期をおくった山陽は、京都に出た後は精神的にも生活の上でも安定し、その才能を発揮している。山陽の活動領域は、漢詩文・歴史・書・南画など多方面にわたり、同時代及び後世の人々に大きな影響を与えた。
 このうち、代表作の『日本外史』は、朱子学的な大義名分論(人として、臣民として、節義や分限を守ること)に基づいて、武家の歴史を漢文で著述したものである。この考え方は、父・春水や瀬戸藩の『大日本史』などの影響を受けており、山陽は名分を乱した者を激しく攻撃し、守った者には最大限の賛辞を与えている。幕末には、この叙述方法が、幕府に対する批判として受け取られ、結果として尊王論を鼓吹する書となった。
 しかし、山陽自身は、必ずしも尊王論の展開を意図していたわけではないようである。山陽は、たとえ名分が備わっていても善政を行わない支配者を厳しく批判しており、『日本政記』の叙述にみられるように、それは天皇についても例外ではなかった。
 また、文政十年(一八二七)には、完成した『日本外史』を松平定信に献上し、定信の題辞を得ている。このことに象徴されるように、山陽自身は、幕藩体制そのものを否定する意図はなかったと考えられる。山陽の活動をみる解き、幕藩体制の存在を前提とした上で、体制内での精神的な自由を求めた側面が強いと思われる。
 ところが、『日本外史』は、文体が漢文であることに特徴があり、漢文になじみのない現代人にとっては難解である。しかし、江戸時代には、学問といえば儒学のことで、人々は中国の古典から基礎的な教養を学んでいた。それに伴って、漢文を読んだり、漢詩をつくることが盛行し、人々にとって漢文は親しみ深いものとなった。
山陽は、漢文のなかに日本語の俗語を採り入れ、平明で巧妙な叙述を行っており、それが『日本外史』がもてはやされた大きな原因の一つである。
 古来日本は、中国や朝鮮との関わりのなかで様々な文化を採り入れ、それに創意工夫を加えて日本的なものを生み出してきた。漢詩文もその一つであり、江戸時代後期に最盛期を迎えた。山陽は、時代を代表する漢学者の一人であった。
日本政記
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