志賀直哉

志賀直哉イメージ
志賀直哉(1883〜1971)
どんな弱い相手とも容赦なく平手で指す
 将棋は腕がほぼ互角であってこそ楽しめる。当然相手が強すぎると面白くない。逆に弱すぎても、また張合いがない。だから、“駒落ち”でお互いの力を拮抗させ勝負のあやを楽しむわけだが、腕の差に、関係なく、いつも平手で指したのが志賀直哉であった。
 彼はいくら強い相手に対しても駒落ちを望まなかった代わり、どんな相手が弱かろうと平手で指して容赦なかった。
 そんな彼に餌食にされたのが尾崎一雄である。尾崎にとって志賀直哉は文学上の師匠であったから、自然に家を訪れる機会も多い。そのたびに彼は、嬉しそうに『ひとつ負かしてやろう』と言ったのだろう。そうなると尾崎はもう逃げるわけにはいかない。やがて尾崎は敗北を認め、駒を崩そうとする。 『待て待てと。そんなことはない』 『逃げみちはありますが、先は知れています。どうせ詰みです。』『参りました』『いやまてまて』そんな具合いに尾崎は徹底していたぶられた挙げ句、とどめをさされるのだからたまったものじゃないだろう。
 彼の将棋の力量だが、後年、尾崎一雄は将棋連盟から二枚の免状を許されるほどの努力派である。
代表作に『城の崎にて』『暗夜行路』等があり、写真は昭和29年頃の直哉。将棋に親しみ始めるのは学習院中等科の頃からと思われる。
志賀直哉イメージ
昭和26年伊豆の温泉で画家・梅原龍三郎と。
随筆『梅原龍三郎と私と将棋』はこの対局をもとに書かれた。
十一月十日 尾道着
十一月十七日 日曜日長屋を見つけ荷物を運ぶ
 何故尾の道だったのか……
 父直温との言い争いの中で、売り言葉に買い言葉のやりとり直哉は家を出る事になる。そして京橋木挽町の永楽館に月三十円で下宿する事とした。しかしそこはすこぶる不適当であった。祖母や義母や妹たちが、友が頻繁に出入りする中、何とか心機一転、物価の安い、知り合いのいない遠い土地へのがれる必要があった。
 最終候補地と思い定めた広島県の尾の道だった。「暗夜行路」では主人公の兄・信行となっている。後年直哉の話によれば、たまたま満州から帰って来た友が、汽車の窓より見た尾道の風景をしきりにほめる者がいたらしい。又永楽館の女将が尾道出身であった。そして決まった。
 白樺十二月号の六号欄をみても、彼は尾道がとても気に入ったようだ。友にあてても、長い長い文を綴っている。
 そして尾の道はたんなる地でなく、自分の原風景である石巻の幼児期のそれと重なり、又彼がよく日記に表現していた「総ての人がイヤ」になった心を尾の道の人々との出合いの中でやわらいでいったのは事実であろう。
暗夜行路


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