洗心
中 国 新 聞
平成13年11月20日(火)

タイトル
家族粉まみれ
        年の瀬懐かし


餅米にミカンをそのまま入れて蒸し
つき上げた「ミカン餅」

ミカン餅

竹原市の田村信二さん(五二)は、水産物を運ぶ長距離トラックで全国を走る。東名高速の静岡県・三ケ日インター付近を走ると、目に飛び込んでくる景色がある。春に山に咲くミカンの花、秋に黄色く色づくミカンだ。

昭和三十四(一九五九)年ごろの広島県瀬戸田町。田村さんがまだ九歳のころに手伝っていたミカンの収穫の記憶が、単調な高速道路の運転中、やたら懐かしい思い出としてよみがえる。
「信二、大きいじいちゃんと、小さいじいちゃんにこれ持っていってあげんさい」。ミカン畑での昼ご飯。母が支度した握り飯を食べるにも順番があった。当時三世代同居は珍しくなかった。
家族は九人。十一月になると親せきも集まり、ミカンの取り入れを十五人くらいで一斉に始める。「この木のこの枝はまだ早いけんの」。急な斜面に等間隔に植えられたミカンの木は、日当たりによって摘果の時期が違うが、一本の木ですら枝によって違う。その見極めは大きいじいちゃんの役目だった。

五月中旬の瀬戸田の山はミカンの香が一週間ほど漂った。「えーにおいがしょーる。信二、おみゃダャーガク(大学)行けーよー」が祖父の口癖。ミカンに高値がついていた当時、祖父は五月の花の付き方でミカンの質を見極めていた。今年の家族で食べるミカンは「この木だ」と言い切ると、それは市場に出せないミカンに育ち、家族や親せきに配られた。
そのミカンは年の瀬に「ミカン餅」にもした。餅米にミカンをそのまま入れて蒸上げる。父が石うすの餅米をきねで一気に練る。母の合い取りでつきあがった餅は祖母が切り、皆が板の上で粉まみれになって丸く餅の形にする。
出来の良いミカン餅がつきあがると、子どもたちは触れないで大祖父母が鏡餅をつくり、特別な板に置いた。御幣を添えて神棚にお供えして新年に備えた。
「以前、似たようなことを餅つき機でしましたが、うまくいきませんでしたね」。十一年前に両親は他界。一人娘も嫁ぐことが決まり、寂しくなった田村さんは妻京子さん(四九)と瀬戸田に出かけた。ミカン餅が売られていたが、食べた時、なぜかのどを通らなかった。

写真 ・ 文 村上宏治


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