中世の尾道は
瀬戸内海の要所であった
その頃の尾道は瀬戸内海屈指の良港で、経済・交通・軍事上の要地であった上に、浄土寺は定証上人感得の十一面観世音菩薩の尊像を安置し、この地方の人々の信仰の中枢でありましたので、この寺を味方とするために公家方・武家方共に浄土寺の外護につとめました。元弘の乱には後醍醐天皇は綸旨を住職空教上人に下して、天長地久の祈祷を命じ、因島の地頭職を寄進されました。
また武家の棟梁足利尊氏は、建武三年(1336)の春、九州へ下った際には尾道に船を寄せ浄土寺観音に戦運挽回を祈って、備後国得良郷や因島の地頭職を寄進し、同年五月大挙東上の時には、浄土寺本尊菩薩の宝前に参籠して一万巻の観音経を讀誦し、観音法楽の和歌三十三首を詠進して戦勝を祈願しました。その後、尊氏が一国一寺一塔の大願を発して
日本六十六州に安国寺と利生塔を建立したとき、備後国の利生塔は浄土寺の境内(元筒湯小学校校庭)に建てその造営料所として、芦品郡金丸
・上山の地頭職、草村の公文職を寄進し、香燈の資として櫃田村の地頭職を施入しました。
つづいて三代将軍義満の時には、九州探題今川了俊も九州へ西下の途次、数ヶ月をこの寺にあって戦備を整えました。この外、室町将軍家が浄土寺に寄せた深い関心の実態は多くの古文書によって察することができます。しかし、その後は室町幕府の権威もおとろえ地方の武家の侵略も甚だしく、戦国時代になると相伝の寺領も全く荒らしつくされました。
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