浄土寺の縁起
 
 





 
 浄土寺の縁起
瑠璃山の翠松を背に、玉の浦の碧波に臨む山陽道の名刹転法輪山大乗律院荘厳浄土寺(以下浄土寺)は、遠く飛鳥の昔、推古天皇の二十四(616)年、聖徳太子の開基と伝えています。
あるときには高野山に縁を結び又は南都西大寺の列に連なり、更に江戸時代に至って京都の泉涌寺派に属して大本山となっています。  

700年前、
定證上人の発願により再興される

鎌倉時代の終わりに、西大寺の定証上人が西国教化の途すがら浄土寺末の曼荼羅堂(現海龍寺)に安居していた頃の浄土寺は堂塔を守る人さえもいない有様でした。 そこで上人は里人の懇請を容れて浄土寺の再興を発願し、尾道浦の大檀那光阿弥陀仏らの援助によって嘉元元年(1303)から同四年(1306)にかけて堂塔を造営し華やかな落慶供養を営みました。

当時浄土寺と曼荼羅堂の別当職であった和泉法眼淵信が、浄土寺・曼陀羅堂及び備後太田庄別所分の山林浜在家などを定証上人に譲ったのは此の頃のことでした。ところが、竣工後わずか二十年の正中二年(1325)に至って諸堂宇悉く炎上という悲運に見 舞われましたが、欲嘉暦元年(1326)には早くも尾道の邑老道蓮・道性夫妻が堂宇再興の大願を発して金堂・山門・多宝塔 ・阿弥陀堂など相ついで再建しました。
その後は一度も災禍にも遭わず、よく六百余年の風雪を凌いで今日までその威容を保っております。



中世の尾道は
瀬戸内海の要所であった


その頃の尾道は瀬戸内海屈指の良港で、経済・交通・軍事上の要地であった上に、浄土寺は定証上人感得の十一面観世音菩薩の尊像を安置し、この地方の人々の信仰の中枢でありましたので、この寺を味方とするために公家方・武家方共に浄土寺の外護につとめました。元弘の乱には後醍醐天皇は綸旨を住職空教上人に下して、天長地久の祈祷を命じ、因島の地頭職を寄進されました。
また武家の棟梁足利尊氏は、建武三年(1336)の春、九州へ下った際には尾道に船を寄せ浄土寺観音に戦運挽回を祈って、備後国得良郷や因島の地頭職を寄進し、同年五月大挙東上の時には、浄土寺本尊菩薩の宝前に参籠して一万巻の観音経を讀誦し、観音法楽の和歌三十三首を詠進して戦勝を祈願しました。その後、尊氏が一国一寺一塔の大願を発して 日本六十六州に安国寺と利生塔を建立したとき、備後国の利生塔は浄土寺の境内(元筒湯小学校校庭)に建てその造営料所として、芦品郡金丸 ・上山の地頭職、草村の公文職を寄進し、香燈の資として櫃田村の地頭職を施入しました。

つづいて三代将軍義満の時には、九州探題今川了俊も九州へ西下の途次、数ヶ月をこの寺にあって戦備を整えました。この外、室町将軍家が浄土寺に寄せた深い関心の実態は多くの古文書によって察することができます。しかし、その後は室町幕府の権威もおとろえ地方の武家の侵略も甚だしく、戦国時代になると相伝の寺領も全く荒らしつくされました。

 
 
 
 
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